江 夏 豊 背番号 28
阪神在籍 1967年〜1975年
在籍時通算成績 424登板 2401 2/3 イニング
159勝113敗 14S
2224奪三振
主なタイトル 最多奪三振 6回
最多勝 1回 沢村賞 1回
最優秀防御率 1回

寅吉が阪神ファンになったきっかけがこの選手。阪神ファンになる入り口に彼はいた。
時はジャイアンツの全盛期、9連覇の初期段階(3連覇から4連覇を狙おうとしていた。)ONの全盛期。世の中の子供たちは、こぞってジャイアンツファン化していたころ。少年野球はは、皆3番と1番の背番号を取りあってたころ。誰もが最後はジャイアンツが優勝するものだと、水戸黄門のドラマを見るがごとく信じこまされていたころ。彼はやってきた。そして、ジャイアンツに敢然と牙を剥いていた。
寅吉が野球に興味を持ち始めた小学校の頃、クラスの誰もがジャイアンツの話題ばかりだったのに、何故か反して(もともと、天邪鬼な性格があったのだけど・・・)そのジャイアンツに牙を剥く江夏という投手に惹かれていった。
その年、江夏は入団2年目、25勝を挙げ、最多奪三振401の記録を打ち立てた年だ。ストレートと少しばかりのカーブしか投げられない高卒2年目のサウスポーは、他のどの選手より輝いて見えた。 今の時代のように、中5日だ中6日だなんて言っていない、中3日が常識の時代だった。しかし、彼は対ジャイアンツ戦になると、第1戦先発、2戦3戦リリーフの3連投、中1日で第1戦と3戦に先発なんてこともいとわず投げ続けていた。
今も覚えているのは、その頃のラジオでの中継の時、アナウンサーが、
「さあ、2ストライク1ボール、長嶋を追い込んだ江夏。次は内角にストレートでしょう。」といって、アナウンサーでも解るような配給をしても、その内角のストレートで三振に仕留めてしまっていたことだ。
「さんし〜ん!江夏、狙い通り内角のストレートで三振を奪いました。これでこの試合10個目です。」
今の時代の絶叫型のアナウンスと違ったアナウンスであったが寅吉の心にこだまして、今も忘れられない記憶となっている。
対中日戦(73年)でのノーヒット・ノーラン(延長11回までのノーヒット・ノーランは記録。しかも自らのサヨナラホームランで決着ををつける。)や、優勝を賭けた中日戦(72年)での敗戦。(この時の中日の投手が星野さんでした。)オールスター戦(71年)での9連続奪三振の快挙。と思い出せばきりがない。しかし、 当時の阪神は、貧打で投手上位のチームゆえ、思うような援護も得られず、それでも、打倒ジャイアンツのため黙々と投げ続けた彼の姿がすべてであった。
寅吉の阪神ファンは、翌年の田淵選手の阪神入団で決定的なものとなったが、その入り口で寅吉を掴んで離さなかったのは、彼であった。
その後、歴代監督との確執や心臓の疾患や左腕の血行障害に苦しめられながら、75年のシーズン後南海の江本を中心とする複数(この中に島野さんがおりました。)とのトレードによって阪神での歴史に幕を降ろした。そして、リリーフとして復活を遂げた彼は、広島、日本ハムで優勝を経験。優勝請負人と呼ばれるようになる。
でも、一度でよかったから、彼が縦じまの時代に優勝する姿が見たかった。
そんな思いをこめ、彼を心の殿堂入り第1号の選手と認定いたしました。


田 淵 幸 一 背番号 22
阪神在籍 1969年〜1975年
在籍時通算成績 1141試合 3845打数
1016安打 320本塁打
735打点
主なタイトル 新人王(69年)
本塁打王 1回 ベストナイン5回
ダイヤモンドグラブ賞 2回
(現ゴールドグラブ賞)
寅吉が彼の存在を知ったのは、彼が法政大学の4年生の時だ。野球に興味を覚えた寅吉は、プロ野球に限らず、高校野球(この年の準優勝高静岡商のエース新浦は、当時1年生だが、中退してジャイアンツ入りというドラフト破りの先駆者となっていた。)、大学野球までも興味の対象としていた。(もとより、のめりこみ易い性格だったらしい。)
その、大学野球界で燦然と輝いていたのが、法政大学の4番で捕手の田淵 幸一その人であった。この年の大学野球界は稀に見る豊作の年、山本浩二(広島)、富田(南海)の法政三羽ガラスはもとより、ライバル明治大の星野(中日)、駒沢大のエース野村(大洋)、近畿大の三遊間有藤(東京)、藤原南海)、亜細亜大の強肩強打のショート大橋(東映)などの逸材がひしめいていた。そのなかで、まぎれもなく彼は頂点にいた。長嶋の持つ六大学の本塁打記録の8本を大きく上回る22本の本塁打を放ち、強肩、俊足で長身というそれまでの捕手のイメージを覆すスター選手であった。あのジャイアンツが王の1番と長嶋の3番に2番田淵を加えた夢のクリーンナップ構想を掲げ、彼もジャイアンツ入りを望んでいた。6大学のプリンス(当時そう呼ばれていた。)田淵の動向は注目の的だった。
その頃の阪神は、「打倒ジャイアンツ」の気概が溢れていた。その年のドラフトで同じ法政の富田と相思相愛でガチガチと言われていたのに、敢然と田淵を指名した。(当時のドラフトは、予備抽選で12球団の指名順を決定し順番に選手を指名していくもの。その年の1位は東映で亜細亜大の大橋を指名。2位の阪神が田淵を指名した。田淵を取られた読売が、明治大の星野との約束を反古にし武相高の島野を指名した。これをきかっけに星野は、「打倒ジャイアンツ」に燃えることになる。)当初は、ジャイアンツへの未練たらたらだった田淵だが、ついに阪神入団を決意。当時阪神のエース江夏とともに「黄金バッテリー」の誕生と騒がれた。同時に寅吉の阪神ファンが決定的に。江夏に誘われ、田淵に背中を押された感じだった。
プロ入り後、すぐ22本塁打を放ち新人王を獲得。2年目も89試合で21本とホームラン打者として順調な成長を示していた矢先、広島の外木場投手より頭部に死球を受け5日間意識不明で生死をさまようといった事態に陥る。(当時のヘルメットには、今のような耳あて部分がなかった。この事故によりヘルメットの耳あて部分がつけられるようになった。)翌年復活するが、80試合118本に留まる。同時にこの頃、急性腎炎とやらで入院。スマートな彼が太り易い体質へと変化していった。しかし、体重の増加とともに彼の打球の飛距離や滞空時間は延び、日本で最も美しいホームランを打てる打者としてホームランアーティストとも呼ばれるようになる。72年に34本塁打を記録すると、打棒は完全復活、75年に王選手の14年連続本塁打王を阻止し、自身初で最後の本塁打王のタイトルを獲得するにいたる。この間、対ジャイアンツ戦での死球をはさみながら7打数連続本塁打の離れ業。数々の満塁ホームラン、さよならホームランの勝負強さを発揮。タイガースの4番として、ミスタータイガースをはっていた。
しかし、ながら太る体質への変化は守備面で年々日に日に彼から俊敏な動きを奪っていった。強肩、強打、俊足とで長身いう捕手のイメージを覆す彼の雄姿がどんどん薄れていった。73年、74年には捕手としてダイヤモンドグラブ賞(現ゴールドグラブ賞)を獲得、盗塁阻止率でも高率を誇っていたかれが、捕手のポジションに堪えられなくなっていった。1塁を守る機会が増え、マスクを片岡に譲ることが増えてきた78年のシーズン終了後、トレードを通告された。相手はこの年クラウンライターから球団を譲り受けた新生西武ライオンズ。真弓、若菜、竹之内、竹田と彼に古沢投手を加えた2対4のトレードだった。
この年、ついに寅吉が阪神ファンとなった要因の2人が阪神から消えた。(江夏投手は、75年のシーズン後南海にトレード)しかし、寅吉はだからといって阪神ファンをやめられるような位置にはもういなかった。もう阪神タイガースそのものが好きになっていた。(72年の屈辱も味わい、一層深くタイガースを応援したくなっていた。)
しかし、彼ほど縦じまが似合い、多くの感動的なホームランを提供してくれた選手はいない。一度でいいから「黄金バッテリー」が優勝で抱き合う姿が見たかった。でも、2003年彼がチーフ打撃コーチとして縦じまを着て優勝してくれた。これが寅吉は何より嬉しい。殿堂入りを承認いたします。
